畸形

子供の頃、たぶん幼稚園から小学校一年生ぐらいまでだと思うけど、ヘレン・ケラーと野口英世とノートルダムのせむし男がホラーだと思っていた。特に、幼少の頃の野口英世がいろりの火で火傷をして、握りこぶしを開くことができずに泣きわめいている場面のおそろしい挿絵は、今でもはっきりと記憶に残っている。
それからしばらくすると、野口英世もヘレン・ケラーも人並みはずれたすごい人だというのが分かって恐怖はなくなったが、上記のような体験により、私は「畸形」や障害にたいして人間の抱く恐怖は純粋に本能的なものだと思っている。
人権が確立されるようになると、「見世物小屋」は消えていったが、和辻哲郎の言うように「倫理問題の場所は孤立的個人の意識にではなくしてまさに人と人との間柄にある」。倫理だのどうのとは言っても、それは個人の意識の領域を扱うことはできない。時やところが変わっても、やっぱり同じ闇が心の中にあるのだと思う。闇を取り払った芸術作品なんて、まったくつまらない。

丸尾末広「少女椿」

我が国の国技「すもう」の起源が雨乞いで、異形の大男が大地を踏みならして豊作を祈願するという神道に基づく儀式であることを、杉村日向子さんの何かの本で読んだ。力士を「畸形」とは呼べないものの、すもうは平均的体型から外れた人間が神話と結びついていた一例である。
古代ヨーロッパでも大男は神性を持っていたが、キリスト教が広まるにつれて、神性を失った畸形は悪魔の象徴になり、見せ物になり、ヨーロッパの王族たちのあいだで畸形をそばにはべらせることが流行った。
イギリスのジェームス1世は大男のウィリアム・パーソンズを片時も手放さなかったし、スコットランドのジャック4世は宮廷に小人をかかえていた。もっとすごかったのはルイ18世時代のフランスの宮廷で、連日小人にかんする話題でもちきりだったという。小人やシャム双生児、手足のない愛妾で溢れていたらしい。

先天的な畸形ではないけど、タトゥーやピアスや体を縫ったりして身体改造によって平均から大きく逸脱した友達がパリにもいるが、日本で見慣れているのであまり驚かない。
死んだ彼女に似せて自分を作りかえたジェネシス・P・オリッジぐらいになるとかなりびっくりするけど。

話は変わって。
私が東北の文化に並々ならない興味を抱いているのは、東北出身の井上ひさしの著書をたくさん読んだせいで、特に好きな作品が「吉里吉里人」である。
東北の寒村「吉里吉里村」が日本国にたいしていきなり独立宣言をするという話で、上中下三巻と長いので、井上ひさしのマニアックな博識と考証を存分に堪能できる。吉里吉里国の独立にまきこまれた主人公が頭も性格も容姿も悪い中年男なので、長いけれどとても読みやすい。吉里吉里国の独立は決してドンキホーテ的なものではなく、自給自足や世界中の独立小国家との連帯、金本位制にもとづく独自の通貨、タックスへブンなど山ほど切り札があるため、日本国はなかなか手出しができない。この理想的な国家の政策を決定してきたのが、国会議事堂車にのった障害者、畸形の議員たちというアイデアが良かった。「吉里吉里人」は日本SF大賞をもらっていて、英訳版も出ているが、もっと多くの言語に訳してもらいたいものである。

去年の秋頃、ローマ近郊の小さい村がいきなり独立宣言をしてイタリア政府をおびやかしたが、私はこういう共同体を応援しているので、この種のニュースが入るたびに内心喜んでいる。横暴な日本政府にうんざりしている人は「吉里吉里人」を是非読んでもらいたい。

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

吉里吉里人(上) (新潮文庫)