クオリア

うえお久光の「紫色のクオリア」は、評価がいいので読んでみたいと思っている。古今東西のSF小説へのオマージュだそうだ。クオリアという語の意味を知らなかったので調べてみると、「質感」、もっと分かりやすく言うと、「いちごのあの赤い感じ」「無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触」などの主観的に経験される「感じ」のことらしい。

クオリアの問題には哲学者、科学者なんかがいろいろな立場で取り組んでいるが、なにしろ主観的な経験なので、実験で直接測定できないという困難があって、これは永遠に解決できそうにない。
子供の頃、「ある物体」の見え方は、「私」のも「お母さん」のも「お父さん」のも「お姉ちゃん」のも同じなのだろうかとしばしば不思議に思っていたものだが、これが実はクオリアの問題だったというわけだ。

去年の夏にイギリスのサフォークで行われたサイコジオフィジックスのサミット以来、忘れない限りは毎日見た夢をメモに残している。夢の体験は現実の物質的世界と対応していない以上、例えば夢の中に出てきた夕日の「あの赤い感じ」、早朝の庭の「湿った感じ」、洪水の時の川の「ごうごう流れる音」は、やっぱりクオリアの存在を裏付けているような気がする。
そう言えば、最近アメリカの大学の研究チームが睡眠中の脳波から対象者の見た夢を映像に変換する技術を開発したそうだ。チームのリーダーは日本人の学者ということで頑張って欲しい。まだ初歩的な段階でそれほどおもしろいものにはなっていないが、今後の発展が楽しみ。

クオリアの問題は歴史上新しいものでも何でもないが、議論されるようになったのは70年代のアメリカ。アメリカ中が精神文化や意識というものに没頭していた時代だ。ティモシー・リアリーやジョン・C・リリーみたいな科学者がいて、意識についてとてもおもしろい実験をやっていたし、かなり唯物論的な立場の科学者リチャード・ファインマンでさえも睡眠中の意識を観察したり、アイソレーション・タンクに夢中になったりしていた。
ティモシー・リアリーは、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」に延々と書かれている「意識の流れ」がインスピレーションだったと自伝の中で告白していた。やっぱりユリシーズはすごい。

ユリシーズ 1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

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